東日本大震災

〜2011.3.11〜



3/11(金)

この日は天気が良く、お昼前後で、コー助、太郎、乙女を
放牧に連れて行き、帰宅後全員のブラッシングと手足洗いを終えて
それぞれのケージに入れてから遅い昼食を買いに出かけた。

先にコンビニに寄り、用事を済ませて車に乗ってエンジンをかけた瞬間
車体ごとグラグラと大きく揺れ、一瞬何が起こったのか分からなかった。

慌ててエンジンを切って外に出ると、やはり足元は揺れていて
目の前の店舗内の電気が消え、中から、お客さんや店員さん達が
悲鳴と共に飛び出てきて駐車場にしゃがみこんだ。

私も立っていられなかったので、再度車内に入り揺れが収まるのを 待ったけれど
とても長い時間に感じられた。

「そうだ、コー助達!」と、慌てて帰宅し中に入った所
飾り棚に置いてあった盾やガラス製のものは殆ど下に落ちて
割れ、ガラス片が飛び散っていたけれど、幸い一番近い太郎
のケージまでは届いてなくホッとした。

コー助、乙女も怪我はなく、3人ともケージに入れて出て行って
本当に良かった。

ある部屋の時計は落ちて、2:45分過ぎのまま止まっていた。

その後も余震が次々と起こっていて、万が一を考え、今度は全員を
KOSUKE号に載せて、フィールド前に駐車し待機させた。

私はその間家に戻り、壊れたものを余震の中片付けていた。
東北沖の震源で相当大きな地震、すぐに身内に電話をした。
つながらない。家でこの有様なのだから、向こうはどんなことに
なっているか・・・早く安否を確かめたかった。ずっと電話を
かけ続け、メールを送り続けた。それでもつながらず返事も無い。

そしてテレビでは、信じられない理解しがたい光景が映し出されていた。
利府の田畑を押し流し留まることを知らない波。
うねりをあげて何台もの車、家を飲み込み破壊していく石巻の津波。
飲み込まれた家や車が赤赤と燃えている南三陸町の光景。
自分の育った故郷が、親戚の住む沿岸が、友人達の住む町が、海水浴に行った砂浜が、消えていく。

悪夢、悪夢としか思えない。目では見ているが、頭では全く
理解出来ず、どうしよう、どうしよう、と半ばパニックだった。

その後も何度も何度も電話し、メールをしていた。
夕方近くに、やっと向こうからかけてきてくれた電話で
一番近い家族の安否は確認出来たが、まだ出社先から戻ってきてない者や、
それ以外の人達とは一切連絡がつかなかった。

夜になり、もう一人につながり、ライフラインは全滅しているけど
家族全員無事だったことを聞いた。

しかしその後も次々と映し出される悲惨な光景に恐怖で一杯だった。

こんなことが現実に起こるなんて・・・



3月12日(土)

昨夜は殆ど眠れなかった。情報を得たいと思ってネットにつなごうと
したがつながらない。昨日の午前中までは使えていたので、
地震でおかしくなったのだろうがこんな時に!

向こうに送る物資を集めることにした。向こうは水道、
電気、ガス、全てがアウト。加えてガソリンスタンドは長蛇の列。

幸い身内の家には卓上のガスコンロはあるということだったので、
まずはガスボンベを近くの友人が買うというので、一緒に買ってもらった。

次に携帯の充電器、電池、すぐに食べられるものとして、インスタントの
ラーメンやパンなどを買いに行くが売り切れている。

家に備蓄していた数は少ないが、棚という棚を開けて
缶詰やインスタント食品、パスタなどありったけをテーブルの上に並べた。

携帯の充電器や電池は、三重の親戚や、熊本に実家のある上司が熊本に行き
「何でも揃うから、必要なものは何でも言ってくれれば送る」と言ってくれ
携帯のラジオなども含めて色々送ってもらうことにした。

しかし飛行機、新幹線、高速道路、全てが使えない。
ヤマト便は北海道、東北6県での集配を中止、佐川もこれに茨城県を加えた1道7県での宅配を中止した。
どうやって助けられるのか?

福島原発に炉心溶融の恐れがあることから、大熊町、双葉町の住民に避難要請が出された。
この時、私が後日愛犬を搬送させて頂くことになるK家も同県田村市へ避難。



3月13日(日)

これだけの大災害、新聞の一面は、まず被災地の状況を伝えるはずだったろう。
町の機能も失われ安否確認も出来無い。
しかし昨日福島原発1号機で水素爆発がおこり、一面トップは原発事故。
続く5面までそうだ。半径20キロ圏内の住民に避難指示が出された。

関東圏でもコンビニでは食品類が売り切れガソリンスタンドの長蛇の列。



3月14日(月)

震災後4日目に、マグニチュードが8.8から9.0に修正された。
沿岸地域では死者が100人単位で見つけられている。

原発の避難エリアに入ってしまった、福島県の津波被害を受けた
地域では、安否の確認が出来無い所か、救助の手も入らず放置されている。

関東、山梨、静岡では計画停電が始るということで、
またもや買占めがおこっている。
被災地で必要な電池、蝋燭、ガスボンベ、食品、水、ガソリン、灯油・・・
お願いだから買い占めないで欲しい。

この脅威の自然災害で立ち上がれないほどの打撃を受けた人達に
原発事故の影響が更に追い討ちをかけている。
政府も原発の対応に追われ、救援に100%力を注げない。

昨日から救援を開始した米空母。陸前高田市で600人の孤立住民を
救出するはずだったが、原発事故の影響で中止となってしまった。

このことは人災以外の何ものでもないと思う。

郵便も東北6県を中心とする地域への集配中止中。

一つ嬉しいニュースが。二晩海で漂流していた男性が救助された。
まだ助けられる命は沢山あると思う。



3月15日

地震後からずっとN〇K、もしくは現地報道の多い局の緊急番組を見続けている。
少しでも目を離して、被災地とつながらなくなることが嫌だったと思う。

気付けばいつ寝ていつ起きて、何を食べたのかあまり記憶になく
11日からずっと長い一日を悪夢を見て過ごしている気がしている。

友人達とも連絡が取れ皆無事だったが、ライフラインは全滅しているので
給水場に出かけたり、寒い夜は大変だったり、食料調達も出来ずと
内陸にいる人達も私達の生きている現実とは大きな隔たりがある。

そして東北県では放映されないTV局は通常番組を始めだしている。
春に出かける先の情報や、地元の美味しい食べ物の紹介。
何事もなかったように笑顔で語るアナウンサー。
津波直後の映像が頭で理解できなかった時と同じに、今写っている画
を理解することは到底出来なかった。

被災地は雪が降るほどの寒さ。自分ばかり暖かい布団で寝ていていいのだろうか。
節電することくらいしか出来無い自分に涙が出た。



3月16日

今日やっとパソコンを直すことが出来た。これで知りたかった情報を得られる。
早速検索を始めると、都内と東北を結ぶ高速バスが今日から運行しだした。
一刻も早く物資を届けたいので、乗車予約欄を見たら都内から向こうに行く席は
1席空いていたが、向こうからこちらに戻ってくる席の予約は1週間先の分まで既に一杯。

送れる方法は無いか探したところ、唯一郵便局の定形外郵便で
最高2キロまでだったら、沿岸の被災地を除けば送れるようだ。
ただし、いつ届くかは分からないし、追跡不能なので万一無くなる可能性もあるとのこと。

それでも可能性があるのなら、と、被災している身内や友人達に
何が欲しいか聞いて戻ってきた返事が以下。

『お米・飲み水・カップ麺・ウエットティッシュ・カセットコンロ用ガスボンベ
・単3電池・車載用携帯充電器・食パン・シーチキン・あれば 携帯用ガソリンタンクです。』

何もかもが停止してしまっている、食べ物も備蓄していたラーメンなどで
あと1週間もつかどうか、ということだった。
それでも「沿岸の被災地に比べたら自分達は天国だから」、と絶対に「大変だ」とは
言わない。皆声は明るく振舞おうとしていた。
そんなはずは無いのはよく分かる。水も、ガスも電気もガソリンも灯油も無い。
食料も買えない。それがこれからどれだけ続くのか分からない中
不安じゃない人間なんていないはず・・・

この日から、あちこちに買出しに出かけ、必要と言われるもの、
必要そうなものを買おうとしたが、無い。買占められていてこちらでも
買えない。

上に書いてもらったものの内、残り後3袋でやっと手に入れたお米1袋、
ウェットティッシュ3袋を買えただけで、水、食パンなどパンの棚は空っぽ。
ガソリンの携帯缶もどこにも売っていなかった。

ただ、私の出身地を知ってる親戚や友人、会社の上司などが
何か必要なものはないか?と声をかけてくれていたので、遠慮なく
お願いした。

あちこちから送ってもらった物や、こちらで何とか買ったものを
均等に7箱に分けて入れ、箱の表面には「支援物資です。どうか届けてください!」
と配達員へのメッセージを書いて郵便局へ持参した。

2キロを20gとかオーバーしていても受け付けられないので、
その場で梱包を解いて重さを調整したり、なるべく混まない郵便局に持って
いったので良かったが、それでも7箱を預けるまで結構時間がかかった。
私の隣の窓口に来た女性は義援金を送りたいと用紙に記入していた。
ありがとうと心の中で言った。そして郵便屋さん、何とかお願いしますm(_ _)m



なんと!翌日身内の家に1つを除いて全ての荷物が届けられた。
平常時に出しても翌々日着なのに、郵便局がどれだけ頑張って
くれたのかが分かった。受け取った向こうも涙だったけど、私も涙涙だった。

郵便屋さん、本当にありがとうございましたm(_ _)m

以降、卓上コンロやこちらで手に入りやすくなってきたパンや卵、
たまたま買えたヨーグルト、都内の友人が沢山買って送ってくれた
ビタミン剤やカルシウム剤、果物、1日2日じゃ腐らないものを
保冷剤を入れて定形外で出し続けた。

そうしている内に、佐川急便が、数は少ないが営業所止めだったら
東北にも荷物を送れる体勢を作ってくれ、これで重量を気にせず
ドン!と送れるようになった。

友人達は「何とか大丈夫だから」と遠慮して何が欲しいとは
言わなかったが、考えられるものを詰めて、合計で20箱以上は
生活支援の物資をあちこちに送った。

皆荷物が届くと電話をくれた。
あれだけ「大丈夫」と気丈に話していた皆が「嬉しかった」と
電話口で泣いていた。

荷物には、コー助、太郎、乙女が去年桜の前で撮った
写真に、短いメッセージを書いて同封していた。
それも大好評だった。

苦しい時、辛い時、自分を思ってくれている人が1人でもいること
それだけで救われるのだと思う。

私が送った品々で、隣近所にも分けて喜ばれたよ、ありがとうと言う人も多く
皆自分のことだけ考えているわけじゃなく、必ず周囲にも分けてくれている。
送り先が1つでも、そこから先にいくつもの支援先があった。

今月分の私のお給料は使いきり、持ち出している状態になった。
それでもやれたことは少しだったけど、でもやれたことに少しだけ
気持ちが緩んだ。



人命優先、そんな言葉があること自体、発すること自体ナンセンスだと私は思う。
それは、そうじゃないと思ってる、という意味ではなく、どんなにキレイごとを並べても、
例え彼らを殺して食べて生きているとしても、彼らのお陰で医薬品や化粧品が
無事に使えていても、例え癒されるとか言われても、
悲しいけど、究極時は言わずもがなだと“社会人として”は思っているから・・・

でももちろん、家族の中での話としては、私達にとってコー助達はまぎれもない家族で
彼らの命が私達の命より軽いと思ったことは一度もないし、一生無い。

もしも自分達の命と彼らの命を瞬時に選ばないといけない時
そんなこと想像も出来無いが、生きるも死ぬも一緒でなければ
一生後悔し、そんな生き方は出来無いだろうと思う。

今回はそんなことを思う間もなく、家族が出かけて家に残されていたり
外につながれたままや、舎に入れられたままの動物達、
たとえ家族と一緒に逃げた動物達さえ津波に飲まれてしまった。

被災地での動物サーチの問い合わせを見ると、写真がある子はまだいいが、
多くが家族も被災していて写真さえ残っていない。
「ミニチュアダックス・雄・12歳・自宅2階で被災・名取閃上:飼い主は〇〇避難所に居ます。
知ってる方はご連絡ください。」
名取閃上は津波で壊滅的被害を受けた所。家もろとも津波に飲まれた
ということが分かる。
「死体でもいいから見つけたら教えて下さい」そんな問い合わせが沢山載っている。

写真がある子は、カメラに向かって笑顔でいる。写真を
撮ってくれている人のことが大好きに違いない。
自分の布団でぐっすり眠っている可愛い寝顔のチワワの姿もあった。
何の不安もなく安心しきっている姿だ。

皆家族の一員として愛されていた子達だったに違いない。





私が福島県の避難所から預け受けたワンコの飼い主さんは、原発のある大熊町の
家族だった。15日に避難命令が出て、取るものもとりあえず、気付けば
まっさきにその子を車に載せていたとおばあちゃんが涙ながらに言っていた。

犬は置いてきたっていう人達も居たけど、私には出来無いよ。

震災9日目に救助された祖母と孫、3週間後に海で漂流していた
瓦礫の山から救出された犬、バン。

どちらの命も「救われた」と聞いた人が、その時感じた気持ちは同じだろうと思う。

生き残った命、救われた命、それは種を超えてもその内のひとつの命たりとも
もう失ってはいけないのだと思う。

そのために皆が何をすべきか。
今回の災害を知っている人間達は一生そのことを忘れてはいけないのだろうと思う。

やっとこのページにとりかかれた今日まさに、朝日新聞の天声人語の
この記事に出会えたことは偶然ではない気がした。

無断転載いけないことだけれど、朝日を購読していない人達にも読んで
もらいたいので転載させて頂く。



以下2011年4月15日【天声人語】記事全文

「亡き主人を迎えに渋谷駅に通う秋田犬の秘話を、「いとしや老犬物語」と伝えたのは

手前みそながら本紙だった。昭和の初め、忠犬ハチ公の誕生だ。

死因は寄生虫とされるが、がんも患っていたという。精勤10年。病身の忠誠はこの動物の才を語る

▼生前に銅像が建ったハチほどではないが、この震災でも「奇跡の犬」が生まれた。

沖に流された屋根の上から、3週間ぶりに救われたバン。飼い主と再会し、

ちぎれんばかりに尻尾を振る姿に、「家族の絆」を思った

▼何匹、何頭が津波にのまれただろう。人の生死と同列には語れないけれど、

ともに生きた何人目かの家族である。愛犬を助けに戻って濁流に消えた人、

家畜の世話のために非難を拒む人もいる

▼やせこけ、放射能の中をさまよう犬や牛馬の姿に、啄木が詠んだ光景の貴さをかみしめる。

<路傍(みちばた)に 犬ながながとあくびしぬ われも真似しぬうらやましさに>

屈託のない犬と、あやかりたいと眺める歌人。今にしてみれば、夢のような退屈である

▼生かされたペットには、仕事がある。愛する人の不在は埋められないが、

小さな命は生がいとなる。無垢に和み、食べさせ寝かせ、頼られることを支えに、

再生への長旅に踏み出す方もおられよう

▼「あなたは一人じゃない」といった励ましが、世界中から寄せられている。

絶望の闇を抜け、この言葉の深さを誰かと確かめ合う日々が、被災者に訪れることを願う。

その時あなたに寄り添うのは、一人ではなく一匹かもしれない。」






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